モナリザを巡る冒険 その2 『聖アンナと聖母子』のカルトン
モナリザを巡る冒険 その1 モナリザは本物か??
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の続きです。
それでは、ここでもう一度じっくり『モナリザ』を見てもらいたい。
あなたは、これをどう感じるだろうか?
人が美を評価する時、主に2通りの評価方法があるといわれている。
すなわち、個人的な評価と、他人がどう評価するだろうか?という人気投票的な評価だ。
前者の個人的な評価では、とんでもないものを美だとする人も、まあ多少居るだろう。人の評価はそれぞれだからだ。
けれど、後者の人気投票的な評価が、自分達の予想と著しく外れることは、かなり少ないのではないだろうか?
たとえば、木村拓哉とかベッカムとかは、個人的な好き嫌いはともかくとして、人気投票で選べば、必ず上位にくるだろうことは自明なことだ。
これは、必ずしも日本人だから選ぶということでもなく、世界の様々な国でやっても、どういうわけか、ほとんど同じみたいである。
どうやら、私達の美意識には、かなり普遍的なものがありそうだ。
そういった本質を考えてから、再び『モナリザ』について評価してみてほしいのです。
これは、本当に、世界最高の名画なのか?と。
もし『モナリザ』が世界最高の名画だということを私達が知らなかったとして、人気投票で、この絵を1位に推す人が、果たしてどれくらい存在するだろうか??
どうですか??
あまり居ない、というか、ほとんど居ないとは思いませんか??
個人的な好き嫌いは別としてですよ、人気投票的に考えて。。
レンブラントは、自画像をしつこいくらい複数枚書いている。
これは彼がナルシストだったためではなく(笑)自画像がよく売れたためだと考えられている。
したがって同じような絵が何枚も存在するし、彼は工房の主催者だったので、弟子と共に制作しているから、それが真作なのか贋作なのか?の判断はとても難しい。
一時期、オランダの研究チームがレンブラントの真作か贋作か?を見分けるプロジェクトを実行したことがあるのだが、当時、大上段に真作や贋作を分けていたものだが、今やその根拠は揺らぎだし、再調査が行われているとのことである。
科学を簡単に信用してはいけない。
これは、服のデザイナーが自分で服を縫っているわけではないにも関わらず、それがデザイナーの作品に帰属されるのとよく似ている問題なのだと思うのですね。
そんなこと科学的に判断出来ますか??
レンブラントの工房で作ったものはレンブラントなのです。
ただ、その中には傑作と駄作があり、駄作の方はブランドイメージを保つためにサインを入れなかったということはあるかもしれない。
関連ページhttp://www.eris.ais.ne.jp/~fralippo/daily/content/200312160001/
レオナルドも、いくつかの絵を複数枚描いている。
例えば『受胎告知』
や『岩窟の聖母』
だ。
彼の場合は、沢山作って売るためというよりも、絵の制作過程の中に真理を見いだすために複数枚書いていて、その出来が良かったもの(あるいは、一番出来がよかったのは手元に残していた可能性もある)を顧客に提供していたのだと考えられる。
つまり、同時並行的に、何枚か絵を描いていくという手法を彼はとっていたのではないか?ということですね。
で、これも前から思っていたのだが、正直な話、僕が見た時の『最後の晩餐』は、修復途中だったため、よくわからなかった。(今でもよくわからないみたいですが)
そして、前にも述べたとおり、『モナリザ』は防弾ガラスに覆われているためによく分らない。
このように、自分の目で実際に見て、レオナルドの最高傑作と呼ばれている二点が、よくわからなかったのだが、それでも、彼の絵がとてつもなくスゴいと思ったのは、ロンドンナショナルギャラリーにある『聖アンナと聖母子』のカルトン(下絵)を見たためである。
この絵は、ごく個人的な評価でいうと、今まで見た絵の中でもっとも素晴らしいと思った絵の一つなのだった。
どこがスゴいのか?というと、それは実際に見てもらうしかない(笑)のだが、それはそれとして、この絵、どう考えても、下絵にしては出来過ぎている。
油絵の制作の為の下絵にするならば、こんなに鉛白による細かい陰影やぼかしなど必要ないのだ。
にも関わらず、この絵が、これほどまでに素晴らしく仕上がっている(とはいえ、レオナルドの他の作品に見られるように、この作品もまた細部は未完であるのだが)のは、この下絵があまりにも素晴らしくなってきてしまったので、注文を忘れて彼なりのやり方で仕上げてしまった為だと思う。
そして、もちろん彼はこの作品は手放さなかった。
そして注文には別の『聖アンナと聖母子』で応えたのだと思う。
そして、この油絵の『聖アンナと聖母子』は、もちろん素晴らしい絵画ではあるのだけれども
そこにはカルトンの『聖アンナと聖母子』にあった崇高な何か、神の領域に届こうとする何か、つまるところ、芸術を芸術たらしめんとしようとしている何かは、あらかた抜け落ちてしまっているように思えるのですね。
その何かは、真理なるものを制作し発見していく過程でしか獲得できないものなのではないか?そして、この場合、それは下絵の段階で獲得されてしまっているみたいなのです。
この『聖アンナと聖母子』のカルトンが、正当に評価されていない(モナリザや最後の晩餐なみの評価を受けていない)のは、それが『下絵』に見えることと、それが『未完成』に見えるからだと思われます。
これが、下絵なんだ、完成品じゃないんだ、という思い込みが、この絵を通常の絵としての評価対象から外してしまっているのでしょう。
しかし、この絵を真剣に見たことがある人ならば(正に僕がそうなのですが、絵の前に1時間近く居て、しつこく眺め続けました。そして、もしロンドンに住んでいたら、毎日眺めにくるだろうと思いました。ロンドンナショナルギャラリーは入場料無料なのです。)この絵が、彼の最高傑作であることは分ると思うのです。
僕は何の権威もないですし、絵の専門家でもありません。しかし、あえて言い切らせてもらいますが、レオナルドは、『聖アンナと聖母子』のカルトンをここで完成させています。
これ以上でもこれ以下でもなく、この時点でです。
ちゃんと見れば解ると思うのです。
レオナルドは、類いまれな好奇心と知識と技術があったために、ものごとを中途半端に終わらせている例が沢山あるのですが、この絵においては、中途半端に終わらせたわけでは無く、ここで筆を置くのが一番効果的だと判断したのだと思えるのです。
それほど、この絵は絵画として完璧なのです。
レオナルドは、優れた作品を作るのにおいて、”作品を完成させ過ぎないこと”の重要性を理解していた数少ない画家の一人なのだと思います。
完成させないで得られる効果よりも、完成させてしまうことで生じる不都合が上回るのであれば、そこで止める。
これは芸術家にとっても、何の仕事をする人にとっても、ものすごく難しいことです。
そしてそれは、一般の人には、とても理解されにくいことなのですが、例えばヴェロニクブランキーノのスカートがとてつもなく美しいのは、完璧な素材のウールを使って完璧なカッティングとテクニックを使って制作していながら、細部を切りっぱなしのまま放っておく、という”未完成さ”を残している点にあるのですね。
”未完成”ゆえに最高に美しいのです。
これは、ものごとの”本質だ”と思います。
『聖アンナと聖母子』のカルトンにおいて、レオナルドはルネッサンス絵画における最高の構図(それは油絵の『聖アンナと聖母子』に見ることが出来ます)を完成させました。
さらに、『モナリザ』や『洗礼者ヨハネ』において達成されたとされている、スフマート(ぼかし)技術をも完璧に使いこなしています。
レオナルドの絵画を巡る試行錯誤とその到達は、疑いようも無く、『聖アンナと聖母子』のカルトンにおいて達成されていると思います。
それが達成されたからこそ、レオナルドはそこで筆を置いたのでしょう。
では、モナリザとは何でしょうか?
もちろん、『聖アンナと聖母子』のカルトンにおいて達成したスフマートの技術や構図を油絵において達成しようとしたもの、と、捉えることは可能です。
しかし、それは油絵の『聖アンナと聖母子』でも同じです。
では、なぜ、『モナリザ』だけがレオナルドの最高傑作と言われるのでしょうか??
『聖アンナと聖母子』のカルトンにおいて、絵画による技術革新を達成した後に、『モナリザ』においてレオナルドが達成した革新とは何なのか??
つづきます
モナリザを巡る冒険 その1 モナリザは本物か??
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モナリザを巡る冒険 その2 『聖アンナと聖母子』のカルトン
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モナリザを巡る冒険 その3 『モナリザ』とは何だったのか??
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by guild-01 | 2013-12-28 17:16 | ART