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クリエイター・インタビュー第一回 DAN TOMIMATSU 富松暖

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クリエイター・インタビュー第一回は、DAN TOMIMATSU

デザイナーのインタビューを始めようと思った時、第一回は、富松暖氏にしようと思った。

なぜ富松暖氏にしようと思ったのか?というと、プロダクトデザインの立場からファッションを見ることが出来ると思ったからだ。

現在、ファッションの世界は、大きな問題を抱え込んでいるように見える。

この状況を突破する為に、まず、ファッション100%では無い人の話から始めたいと思う。
ファッションを別の角度で見てみる必要があると思うのだ。

インタビューは、かれこれ10時間以上行われており、現在なお継続中である。
そして、現在、まとめ中だ。
それなので、数回に分けたロングインタビューになります。

このインタビューは、これからのデザインに、一筋の光を見いだすことが出来れば良いなという風に思います。


以下本文



富松暖 以下dan
インタビュイー:contemporary creation+ 以下ccplus

ccplus
本日は、ありがとうございます。
えーと、まず、暖さんは、たしかお父さんが彫刻家で、お母さんがテキスタイル・デザイナーなんですよね?
そういう家庭で育つと、なんか服のデザイナーになりそうだなという気がするのですが、ファッションデザイナーになる気は無かったのですか?

dan
こちらこそ、ありがとうございます。
実は、卒業制作は服だったのです。
なので、今でもファッションへの憧れはあります。

父が木で彫刻を作っているんですよ。それで、木材調達のために東京から奈良へ引っ越したのです。
「子供は大自然の中で育つべき」という父の教育方針もありました。

ボーイスカウトとか、カヌーをやらされたりとかしたのですが、嫌で、引きこもっていました。笑
それでも、モトクロスをやらされて、あげく大怪我をして、余計に引きこもりになりました。
奈良の田舎で、『ファッション通信』を見るのが楽しみな、そんな子供でした。

ccplus
奈良にはいつからいつまで居たのですか?

dan
小学生から中学生までです。
母は東京の人だったので、田舎の生活に戸惑っていたのですが、テキスタイルデザイナーなので、草木染めに転向しました。
それで、野山で草木を採集してストールとか布を染め上げて作品を作り、発表は東京なので、たまに東京へ行くという暮らしをしていました。

ccplus
暖さんは作風が都会的ですけど、意外と自然の中で育っていて、しかもルーツがものすごく自然なのですね。
そういえば、いろいろな作品やロゴとかの表現に自然の秩序の移し替えみたいな、そういうものを常に観察していた人じゃないと出来ないような、本質的な美しさを感じます

dan
ありがとうございます。
自分では、全然気付かないのですが、もしかしたらそうなのかもしれません。
父の教育のおかげだったのかもしれません。

ccplus
高校からはどうされたのですか?

dan
高校は大阪の高校に行きました。
奈良から40分くらいで大阪に行けるのです。
大阪は美術の予備校もあったので。
京都市立芸術大学を目指して勉強していたんです。
ところが、母が病気で倒れまして、東京にしか病院が無いということで、東京に戻ってきました。

ccplus
お母様はどうされたのですか?

dan
亡くなりました。
癌だったのです。
ものすごくショックを受けました。
父などは、名前を変えました。
母の名前がルミというのですが、父は、ミキオで、母の名前のルミを自分の名前の中に入れてルミキという名前に本当に変えたのです。
母が死んでから、ずっと毎日母の分もご飯を必ず作っています。

ccplus
奥さんの名前と自分の名前を一体化するっていうのは初めて聞きました。よほど愛していらしたのでしょうね。

dan
そうですね、でも逆に心配になります。再婚した方が良いのではないか?とか。


(その後のDAN TOMIMATSUの作品は、彼のお母さんが亡くなったことに対する影響が色濃く見てとれるようになる。失われた幸福への回帰や、現在あるものの永続性に対する願望などが、作品になって繰り返し現れてくる。もちろん、それが彼の作品の魅力になっていることは間違いないと思う。編集注)

ccplus
卒業制作は服だったんですね。
たしか出身は、多摩美の造形ですよね?

dan
そうです。多摩美術大学の造形表現学部というところです。
その前に立美って立川美術学校という予備校に行ってました。
ほとんど勉強しなくて、いつもカフェとかでうろうろしてました。
落ちこぼれだったんです。

ccplus
落ちこぼれだったとは、現在のコンセプチュアルで頭良さそうなデザインからは想像出来ませんね。
なぜ落ちこぼれだったんですか?

dan
いつもデッサンばかりやっていて、意味が分らなかったんです。デザインを勉強しに来てるのに、なぜデッサンばかりなのか?それが分らなかったんです。
現在は、分るんですけど。
デッサンは、ものの見方を養うために必要なんです。
じっとものを見て、描いていると、ディテールとか陰影とか色々なものに気付くのです。
それをやった人とやらなかった人は、デザインが全く違うようになると思います。
今では、やって良かったなという風に思います。

ccplus
デザイナーとかアーティストもそうですけど、『人が見えないものが見えてくる能力』っていうのが必要ですよね。どれだけ見えてくるのかが重要だと思います。

ファッションデザイナーになろうとは思わなかったのですか?

dan
高校生の頃はファッション大好きでしたので、考えました。
でも、ファションをやるとしても、直ぐにファッションの専門学校に行くというのがピンと来なくて、まずデザインの勉強をしようと思ったんです。
デザインとは何なのか?を学ばないといけないと思いました。

多摩美では、デザインとはコミュニケーションだということを しきりに言われました。

ccplus
うちの店もcontemporary creation+communication development 現代の創造とコミュニケーションの発展 という名前が付いてまして、まさにそれです 笑

dan
もう一つは、デザインの歴史とか基礎みたいなものを学びたかったということがあります。
プロダクトデザインは、産業革命があって、アーツ&クラフト運動があって、バウハウスがあってという流れが基礎にありますよね。

ccplus
ファッションの世界は、それがなかなか見えて来ないですよね。
ココ・シャネルやイヴ・サンローランについて語る人は居ても、産業革命について語る人は、ほとんど聞いたことがありません。
ファッションこそが産業革命を作ったのにです。
これは、大変おかしいという風に思います。

dan
僕もその辺りを考えたかったんです。

ccplus
産業革命が起こしたファッションへの渇望が、女工哀史のような、劣悪な労働環境を産み出したわけですし、それが、手仕事による、用の美をもたらすアーツ&クラフツ運動を産み出したわけですよね。
この辺、話し出すと長くなりますので、ここは端折りますが。。
それで、どうしたんですか?

dan
多摩美の3年生の時に、服を卒業制作で作ろうと決めて、多摩美に行きながら伊藤衣服研究所というところに服を勉強しに行きました。

ccplus
ファッションの勉強もしているんですね。
卒業制作は、どういうものを作ったんですか?

dan
『ポートレート・クローズ=肖像服』っていうタイトルで、人の身体を石膏で型取りして、カタチを作りました。

プロダクトデザインを勉強していたので、プロダクトデザインって、『問題解決』だという風に多摩美では言われていたんですよ。
後にイタリアに行って、必ずしもそういうアプローチだけでは無いことに気付くのですけど、当時はそういう風に思っていました。

問題を解決するために、取手の部分のカタチがどうなるとか、そういう風に出来ていくのです。
それを服に当てはめてみたのです。

では、そもそも服とは何なのか?
なんで、人間はこんなに体毛が薄いのか?
それは、毛皮を着ていたからに違い無い。
毛皮を着ていたから、結果的に体毛が薄くなって、服を着ざるを得なくなった。
結果的に服が必需品になっていったと思うんです。

それから、社会的な地位とかシンボルとか色々なものが付加されるわけですけど、基本はそうですよね。

もう一つ、毛皮を着なかった人達が居て、その人達の服って『入れ墨』になっていくんです。服が必要無くって、呪術的な意味が残っていったんです。
物理的には毛皮で精神的には入れ墨なのかなと。

ccplus
そうですよね。あと、アフリカとかの人は、日射しを避けるために赤土を皮膚に塗ったりしますよね。物理的には、赤土系と毛皮系が居たと思います。
赤土系の人達が入れ墨になっていったんじゃないか?
あと、狩猟系の人達は、狩った獣の毛皮を着ることで擬態し、獲物を獲得することが出来たり、洪水や津波みたいな災害にあった時に、毛皮を着てた人達だけが生き残って、毛が薄い人達ばかりになっていったのではないかと思います。
あと、海に潜った人も居たはずですが。。(余談)

dan
そう思います。
それが段々社会的なイメージの操作の対象になっていったというか
イメージを取り替えるための服になっていった。

では、破壊されないイメージとしての服って何んだろうと思ったんです。

服のイメージってあるじゃないですか。あれはシルエットだと思うんです。
で、服を機能として突き詰めていくと、義肢になっていくと思うのです。
義肢って義手とか義足とかの義肢です。

人間の身体の一部としての服が義肢です。
それで、義肢としての服を作りました。

石膏で型取りした腕の部分をシャツと組み合わせて、その人自体のシルエット=イメージをシャツに反映されるという作品でした。

それで、人間には、誰かになりたいという願望があると思うんです。
身の回りに居る人の誰かになってみたいというようなイメージ、手本とする人に憧れるみたいな。

それと同時に、人間には、欠損したものを補う役割として衣服があると思うんです。
それは、毛皮を着ていたから体毛が薄くなっていて、逆に寒くなったら、服が必要みたいな、物理的な欠損を補う部分と、理想的なイメージの自分に到達するために、自分に足りない部分を服に求める精神的な欠損を補う部分があるように思えます。

呪術的な部分ですよね。
それを誰かのイメージ=義肢を着ることで表現しようとしました。

これは、アンチモード=プロダクトデザインの領域から服を考えたのですが、ただ、人間のどの部分を反映させるのか?自分が選んでいる時点で、やはり、イメージを選んでいる=モードになってしまったなという風に思いました。

ccplus
ほとんどコンセプチュアルアートの世界ですね。
元々、衣服の誕生は、狩った獲物の毛皮を身に纏って狩猟をしたことなんですね。『違う何かに変身したいという願望』は、ですから、人間が根源的に持っている、人間が人間である、そして衣服が衣服である根源の部分だという風に思います。

卒業してから直ぐイタリアへ行ったんですか?

dan
いいえ、イタリアの大学も試験が英語なんです。それでまず、イギリスのブリストルというところの語学学校に行きました。
1年くらい居ました。
イギリスのRCAかセントマーティンか、イタリアのDOMUSを受けようと思って。
最初にDOMUSアカデミーに受かってしまったので、イタリアに行くことにしました。
キャロル・クリスチャン・ポエルっていうファッションデザイナーが好きだったんです。彼がDOMUSだったので。
実は、キャロル・クリスチャン・ポエルのアトリエの数件隣りに住んでました。DOMUSの直ぐ近くなんです。

ccplus
僕もキャロルのコート愛用してますので、羨ましいですね。
ところで、イギリスでの生活では何かを得ましたか?

dan
イギリスは試験勉強していたので、あまり得るものは無かったです。
奴隷の部屋に住んでいたんです。地下にあるんですけど、だだ広くて。

ccplus
やはり、イギリスはそうなんですか?

dan
イギリス全部がそうというわけではなくって、たまたま住んでいたところがそうだったのかもしれませんけど。

ブリストルは奴隷貿易で栄えた街だったというのがあります。

ホワイトレディスロードとか
ブラックボーイストリートとか、
奴隷記念館とかもありました。

奴隷の部屋は地下と屋上と責められた時、家事の時にもっとも逃げづらい部屋に決まっていました。

ccplus

そうなんですね。
そういう時代があったのですね。

今現在の話だと、アントワープとかだと、気に入られると、どこでも500ユーロで貸してくれるらしいですけどね。アーティスト支援で。
ビル一棟借りて500ユーロっていう話も聞きました。
では、イタリアの話を聞きましょうか。


つづく
次回 第二部 イタリア編 (大変面白いですので、お楽しみに!)

by guild-01 | 2011-11-26 22:12 | DAN TOMIMATSU