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直島へ 地中美術館とアートの領域に達した完璧なデザインについて

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このブログ、ほぼ毎日更新予定なのですが、現在とても忙しいので、過去日記掲載です。(数年前の日記なので、そのつもりでお読みください=細部の情報が現在と変わっている可能性があります。)


直島へ

降りしきる雨の中、仕事を無理矢理終えた僕は新宿へやってきていた。
バスが来るまでのわずかな時間を見つけて、はなまるうどんで、わかめぶっかけうどん(かつおぶし+ささみかつ)を食し、ルミナス1号に乗って、一路岡山へ向けて旅立った。

岡山駅へ着いたのは午前7時45分。
久々に自動改札ではない駅にとまどう。

思えば、ずいぶん昔の修学旅行で関西に来た時に、はじめて自動改札を経験した時は衝撃的だった。
当時はまだ東京でも自動改札は存在しなかったのだ。
関西って、なんて最先端なのだと関心した。
あれから、どれくらい経つのだろう?



直島へは、岡山から高松方面の電車に乗り、茶屋町で宇野線に乗り換えて宇野に行き、そこからフェリーというルートを辿る。


車内は黒髪の女の人がことのほか多い。
し、新鮮だ。。
なぜ、いつの頃からか、日本の女の人の髪はみんな茶色になってしまったのだろうか?(当時は茶色ばかりで新鮮だったのだ 注)


沿線では、ろくでもない郊外の風景と、伝統的な黒い木と白い漆喰の壁の家が同居する。
この黒い板は、タールが塗ってあり、潮風による浸食や腐れを防いでいるのだろう。
そして漆喰は、湿度を適度に保つために必要なのだろう。

屋根の分厚い瓦も、日射しや雨や台風をしのぐのにとても優れている。
だいいち、見た目が美しい。

それに対して、木造モルタル造りでトタン屋根のありきたりな住宅は、美しくない上に、意味が分らないと思う。
呼吸している木をモルタルで固めていったいどうしようというのだ?
防火建築とコストの削減は、わけのわからない町並みを全国いたるところに産み出してしまった。


それでも、この辺りでは美しい住宅ががんばっているのが分る。
そして、その住宅は黒髪が似合う。


港でフェリーを待つ。
こんな辺鄙な田舎に、なぜかフランス人の二人組が船を待っている。
それが直島だ。
彼女達は今や季節外れとも思えるリゾートウェアを身につけている。
しかし、彼女達にとって、この旅はリゾートなのだろう。

とはいえ、このフェリー、島の人にとっては思いっきり普段の足だ。
そのギャップが面白い。

そして船が来る。
あたりまえのようにたくさんの物資や車や人を飲み込み、船は出発する。


店内は、おもいっきりレトロフューチャーだ。
1950年代の未来デザインのようなキッチュな内装。
ピンクのソファーに西陣織のように柄が織り込まれた布地の椅子。
丸みを帯びた窓と電気。
狙ったのか?
いや、まじだったのだろう。

なぜかそこに、工場労働の作業員や、かっぽうぎを着たおばちゃん、リゾートウェアを着込んだフランス人などが渾然一体となって島を目指している。
日本に、こんなにインターナショナルかつディープにロコモーティブな場所があったのだ。


そして瀬戸内海。
かつて、ある中国人が瀬戸内海を見て、「日本にも大きな河があるじゃないか?長江よりはかなり小さいけどね。」
と話したという笑い話があるけれども、たしかに瀬戸内海は大河のように見える。
複雑に流れ、渦を巻きながら流れ続ける大量の水。


直島が見えてくる。
工場建設によって削り取られてしまった痛々しい部分と、自然が同居する直島。


船は港に着く。


今回宿泊するのは、志お屋旅館。
見つけるまでちょっと迷うが、し、渋い旅館だ。
とりあえず荷物を置かせてもらう。



10時10分、地中美術館行きの町営バスに乗り込む。
運賃はたったの100円。
乗客は僕ひとり。。
だ、大丈夫なのか??(笑)



地中美術館
http://www.benesse-artsite.jp/chichu/


安藤忠雄建築の集大成ともいえる地中美術館。
その名の通り、大部分は土の中に埋まっている。

安藤お得意の、打ちっぱなしコンクリートの回廊を歩く。
案の定、床を歩く時の『コツコツ』という音が綺麗に響く。
なんといっても、僕はわざわざこのために『皮底のブーツ』を履いてきたのだ。
正解だった。
が、後に、もっと正解だったことが判明する。



第一室は、クロードモネの『睡蓮』のための部屋。

ここは、春に直島に行ったTの大オススメだったので、期待していた。
たしかに、こりゃスゴい。
完璧に考え尽くされた空間。

この消しゴムみたいな床の材料はなんですか?と学芸員さんに聞いたら、大理石ですとの答え。
なんだ、大理石って磨かなければカッコイイのではないかい。
(なんでも、ミケランジェロの彫刻に使ったのと同じところで切り出された大理石らしい)

丸みを帯びた白い漆喰の壁
磨いてない大理石の小さな立方体を敷き詰めた床。
光はすべて自然光。

光を柔らかく部屋に満たすために、トップライトの下には日よけがついている。
天井も全て白。

太陽が雲で隠れるのが、部屋の明るさによって分る。
それによってモネの睡蓮の見え方も変わる。

視覚だけではない、全身で感じる光と絵画の関係がそこにはある。

自然光の移り変わりを描き続けたモネの作品を飾るために作られた部屋。
絵画と建築、芸術とデザインが一致した空間がそこにある。


ここにあるモネの睡蓮は、彼の最高傑作ではない。
他の絵も、そこそこの作品だと思う。
モネの絵には、もっと素晴らしい作品(たとえば大聖堂を描いた一連の作品など)がいくつもある。

しかし、この部屋の睡蓮は、今までに見たモネの中で最も素晴らしいモネだったと思う。
それは、視覚だけではなく、全身の五感によってモネを体験出来たことによるのだろう。


最近、再びモネの作品をよく見るようになった。
きっかけは、今年になって国立西洋美術館の展覧会によく行くのだが、そのついでに見ていた常設の松方コレクションのモネがとても素晴らしいと思ったからだ。

僕はもともとモネが好きで、彼が描いたノルマンディーの海岸に行ったくらいなのだが、最近まであまり見なくなっていたのだった。

けれど、西洋美術館のモネを見ると、自らの光の体験が蘇ってくることが分った。
それは、絵を見るという行為だけではなく、自分に起きた光の体験を追体験
するという行為でもあったのだ。
だから、モネの作品は、自分にとって素晴らしいのだろう。
他の人にとっては、どうだかは知らない。
自分にとって素晴らしいのだ。


光を感じること、それを全身で感じ取ること、それはとても素晴らく根源的な出来事だ。
だから、それを想起させる絵画が色あせることは永久にないのではないだろうか?そう思う今日この頃である。



第二室は、いよいよジェームスタレル

タレルの作品を見ることはオドロキの連続であり、ネタばらしすることは避けたい。
そこで、いくつかの印象を書くにとどめる。

『オープンスカイ』
丸みを帯びた石のひやりとした感触が心地よい。

素肌にあたる感触と目の前に広がるフレームの中の光や色。
それは、湿原の脇にあった岩に寝転んだ感覚を彷彿とさせた。
そしてそれは秋の訪れを感じさせるものだった。

『オープンフィールド』
振り返った時に見える補色のオレンンジ。
マークロスコが描いたオレンジ。
マークロスコが愛したオレンジ。



第三室はウォルターデマリア

美術館のトップ(最上階)は、礼拝堂のようになっている。
その空間がデマリアと安藤のコラボレーションによる空間だ。

この場所において、僕が履いてきた『皮底のブーツ』は、最大限の効果を発揮することになる。

音の響きが素晴らしい。
歩き方を変えてみる。
つま先の方を先につける歩き方。
かかとを先につける歩き方。
歩く姿勢。

自分が歩いた足音によって表情が変わる空間。
僕は全身の神経を歩く音を響かせることに集中する。

音響、反響
完璧に計算尽くされた建物の素材と形状がそこにはある。


ゴム底のスニーカーを履いていっては絶対に気付かない、サウンドスケープがそこには存在する。

『空間や建築』それは、それ自体単独で存在しているわけではない。
『私』という媒介が空間を変えるのだ。

みなさまも地中美術館へ行く際は、是非『皮底の靴』で行きましょう。(笑)


服はJACK HENRYのジャケットを着てくるべきだったと反省する。
collection PRIVE?のパンツと裏返したコスチュームのジャケットという僕のいでたちは、ちょっとこの空間にはカジュアルすぎた。

といっても、夜行バスで岡山まで行くには、バシッとした服を着ていくのは難しい。
うーん、難しい。


安藤建築と地中美術館の背後にあるもの

安藤の建築は、おそらく個々の経験と普遍的な論理、両方によって裏打ちされている。


地中に埋められ、屋根を土や芝生で覆った建築。
そのような建築のオリジナルを、僕はスペインのGuadixで見たことがある。
地中を掘り抜いて、壁をしっくいで塗った住宅。
スペインの強烈な日射しを避け、中は涼しい。
適度な湿気を保ち、冬でも暖かい土と岩で出来た住宅。
それは、土地の環境に完璧にフィットした完璧なデザインだった。


部屋に到るまでの長い回廊は、エジプトのピラミッドだろうか?
それともローマのフォロロマーノの印象だろうか?
異界へとくぐり抜ける装置としての長い回廊。
それは、多くの寺や神社の階段や回廊とも通じる普遍的なものだ。


この回廊を安藤は打ちっぱなしのコンクリートという、モダンデザインが産み出した比較的均質な素材で創り上げる。
とはいえ、コンクリートそのものは、もともと川底の砂利や砂を用いたものであり、自然の加工品である。

そこには、やはり自然が産み出したテクスチャーが存在している。
そんなコンクリートで出来た回廊の中庭に、安藤は”とくさ”を植える。
あるいは、石灰岩を置く。


この技法は、南禅寺金地院の庭や龍安寺の石庭に見られる技法の応用だろう。
かつての庭園デザイナーが用いた自然(宇宙)の移し替えの技法。
京都郊外の川から持ってきた砂利や砂や岩がもたらす新たな宇宙、それをコンクリートや”とくさ”や石灰岩に置き換えたのだ。


70%の加工された自然と30%の自然
70%のグローバル性と30%の地域性と言い換えてもいい

それが安藤が行っている『現代建築』の姿なのではないだろうか?


この建物は細部まで実に気を配られている。
亜鉛の質感とコンクリートの質感と木の質感のバランス。

この絶妙のバランスを作り出すためになされた配慮は、相当なものだと思う。
お金だって手間ひまだって、ものすごくかかっているだろう。
それは見事だ。
故に、『触ってはいけない作品』になっているのだろう。


おそらく、この美術館は、ある種の『究極のデザイン』を実現したものだといって良いと思う。
『究極のデザイン』は、実用というよりもむしろ、『作品』として『芸術』にならざるを得なかった。
それが、この美術館の姿だったのではないかと思う。


僕は、この『作品』を尊敬している。
しかしながら、この『作品』が新しく自分に何かをもたらしたか?と問われればNOと答えざるを得ないだろう。

この作品が内包しているもののほとんどを僕はオリジナルとして知っており、経験している。
そういった面で、この作品は美術史や建築史や庭園史を現代風に解釈し直したものであるといって良いと思う。

僕にはそれが『分ってしまう』のだ


同様のことは杉本博司の写真にも言えると思うのだが、僕は彼の写真がとても好きだ。
しかしながら、杉本の写真を僕はすでに知っている。
ゲルハルトリヒターとマークロスコとジョエルマイヤーヴィッツが大好きな僕にとっては、杉本の作品は既に自明なものなのである。


それはクオリティーが素晴らしいが故に『作品』として尊敬されるべきものであり『芸術』に至っていると思える。
しかし、そこにオリジナリティーや、この世界に新しい何かを付け加えるはずの芸術性というものを見ようとする時、そこに何があるのか?がよく分らないのだった。


つまり、安藤の地中美術館も杉本のハイクオリティーな写真も、共に、とても優れた究極のデザインといってよいものなんだと思う。
それは、ハイクオリティーで芸術の域に達している。
しかし、それは完璧であるが故に自明なのだ。

それは完璧に仕立てられたデザイナーズのスーツとも共通するものである。


ここに、芸術というものの持つ二律背反性が生じることになってしまう。


『本当に優れた芸術は、完璧であってはならない。』


なぜなら、完全さは、この世界に新しい何かを付け加えることは無いからである。


本当に新しい何かをもたらすものは、もっと違うものである。
おそらく本当に新しい何かをもたらすのは5%の例外である。

そして、その新しい何かを、僕は『南寺』で体験することになる。

つづく


つづきはこちら。
直島へ ジェームズ・タレル×安藤忠雄 南寺
http://guild3.exblog.jp/16511304



外部リンク
ベネッセ アートサイト直島
http://www.naoshima-is.co.jp/

地中美術館
http://www.benesse-artsite.jp/chichu/

家プロジェクト
http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/index.html

by guild-01 | 2011-11-05 14:07 | ART