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Saori Fukasawa Concert de solidarité pour le Japon



新進気鋭のアーティスト紹介のコーナーです。


フランスを舞台に日本語の詩で勝負している女性が居ます。


深澤 紗織(ふかさわ さおり)

1982年11月2日、東京生まれ。
ポエトリーリーディングを通して、
音楽・ダンス・ファッションなどのアーティストらと共演。
2008年、第4回文芸思潮現代詩賞奨励賞受賞。
2011年、初詩集「世界は点滅するモザイク模様のように」を出版。
「Maison de la poèsie(フランス国詩人会)」会員。

http://saorifukasawa.com/profile

ちなみに、リンク先の写真のスタイリングは管理人です。

上に着ているのはMARTIN MARGIELAのバッグ
下に履いているのは、管理人制作のシャツリメイクのスカートです。


彼女の作品は、ポエトリー・リーディングというよりも、むしろラップの世界を
一歩押し進めたような、音楽の世界に近い感じがします。

以下、琴と太鼓と弦楽器の音楽も素晴らしいので、是非聴いてみてください。

映像はこちら
http://saorifukasawa.com/post/9711767193/concert-de-solidarite-pour-le-japon



Concert de solidarité pour le Japon

8月27日、フランス・グルノーブルで開催された Concert de solidarité pour le Japon より。
ホップウッド祥子さんによる、妖しげな音階のチューニングを施された琴の即興演奏から始まり、そこへアブデルハミッド・シェラギによるアラビックパーカッションが交わる。不思議と琴の音階が記憶にあるアラブの音階と重なり、違和感なく、馴染んでいく。
二編目の朗読「黄色に染まる女たちよ」からは窪田真理子さんによる和太鼓の即興演奏が加わり、わたしは腹に響く連続的な低音に、津波で命を落とした人々、今も操業を続ける原子力発電所、終わらない放射能の恐怖を重ね、瞑想の中、朗読を続けた。


http://saorifukasawa.com/

by guild-01 | 2011-11-10 14:30 | ART

最近撮影した写真

昨日はデザイナー達とデザイン会議。

今日は、デザイナーインタビュー収録予定

写真は、最近撮影した写真


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by guild-01 | 2011-11-09 14:29 | FASHION

直島へ ジェームズ・タレル×安藤忠雄 南寺

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写真は杉本博司の屋外展示


直島へ 地中美術館とアートの領域に達した完璧なデザインについて
http://guild3.exblog.jp/16483114/ のつづきです。





ベネッセハウス

地中美術館からベネッセハウスへ向かうと、ちょっとがっかりする。
完璧にコーディネイトされ、デザインされた空間から、そうではない空間への移動。


ベネッセハウスは、基本的に安藤の設計による『ホテル』だ。
だから、そこでは現実の経済的合理性や使い易さやメンテナンスのし易さなどの現実的な要素が、建築の主要な要素になる。

だから、目に入る、あるいは手に触れる、あるいは歩く床などのテクスチャーは、地中美術館とは決定的に違う。

それはデザイナーがデザインしたシグネチャーブランドと、デザイナーがディレクションした一般向けのカジュアルブランドの違いみたいに決定的な差だ。

パーツや素材や空間構成やディテールが全然違うのだ。

ホールを歩く時の音も、もっとひずんでいて美しく無い。
床は体育館の床のようだ。


ホテルの内部を美術館、それも現代美術館にするという発想は素晴らしい。
しかし、それがうまくいっているかどうか?は、また別問題だ。

おそらく、このベネッセハウスは、発想や思想と実態がうまくかみ合っていない。
つまり、デザインがうまくいっていない。
そして、その反省のもとに産まれたのが『地中美術館』なのだと思う。


たとえば杉本博司を自然光で見る。
発想としてはナチュラルのような気がする。
しかし、強烈な直射日光の下で見るモノクロームの杉本の写真は、意味不明というか本末転倒である。
もしかすると、曇りや雨の日に見たら素晴らしいのかもしれないけれど。。

リチャードロングもこじんまりとまとめられてしまい、ちょっと可哀想な感じだった。

名前は忘れたが、直接見ると稚拙なただの海岸の絵が、直射日光をうけた庭の外からガラス越しに見ると、ガラスに移り込んだ海岸の風景と渾然一体となっていて、それはスゴいと思う。偶然かもしれないけれど。。


おそらく、ベネッセハウスのイメージ元は、デンマークのコペンハーゲン郊外のLouisiana美術館あたりにあるのかもしれない。
なんだかちょっと似ている。

ただ、あそこのデザインは素晴らしい。
海と美術館と作品、完璧な調和をみせていると思う。




屋外に出る。

屋外の作品を眺める。
まあ、大体、屋外の作品で大した作品に出会ったためしはないのだが(笑)
(もしも、とんでもなく大した作品作ったら、絶対盗まれてしまうから屋外になんか置かないんじゃないか?、ふつう 笑)

とか言いながら、期待しちゃうんだから、人間って馬鹿ですねー(笑)
とはいえ、こうやって歩きながら、ひとつひとつ作品を発見していく行為は純粋に面白い。
青白い顔をした美術関係者とおぼしき外国人の二人組も、炎天下の下、必死に歩いている(笑)

どうしても運動不足で日光の足りなくなりがちなインドア芸術おたくにとって、こういった試みは重要なのかもしれないと思う。

吉祥寺でも何かやれるかなー??(その後、あれこれやることになる)


シーサイドのキャンプ村も、パオが壊され、現在新しいホテルの建設が行われている。
道路わきに植えられたヤシの木?も、リゾート感を盛り上げるために植えられたのだろうが、地中美術館みたいなスゴい作品を作ってしまうと、思いっきりダサダサに見えてしまう。

どちらかというと、中国っぽい雰囲気の瀬戸内海の島に、南国リゾートの気分は全く合わないのだ。
どう考えても、松植えた方がかっこいいだろう。

同じことは、地中美術館のモネの庭についても言える。
今の所、モネの庭がうまくいっているとは言いがたい。
それはなぜか?
モネの庭のあるジヴェルニーと直島の環境が決定的に違うからだ。

モネはフランスに日本風の庭園を作り、そこで絵を描き続けた。

今度は、日本にモネ風の庭を造ろうとする。
しかし、モネの庭はフランスのあの土地だから出来たのであって、同じことが瀬戸内海の海岸線の砂地で出来るとは考え辛い。
土の質が全く違うはずだ。
だいたい、美観的にも周囲の松とまったく似合っていない。


しかし、植物は土壌や植生を変える。
それが庭園デザインのスゴいところである。
もしかすると成功する可能性もあるのだろう。
この先どうなるのか?見守っていきたいと思う。



バスで家プロジェクトのある本村地区へ移動する。

家プロジェクトのチケットは、バス停の前のたばこ屋で買える。
三館共通で500円也
チケットの裏に地図が付いており、それをたよりに歩く。


最初に見たのは宮島達男の『角屋』

『角屋』は、入り口も地味だし、見た目も地味。
地図がないと全然分らないかもしれない。

でも、なんだかとても良い。
古い民家の中に作られた池(水槽?)の中にゆらゆらうごめく宮島達男の数字は、なんだか金魚すくいみたいで味わい深い。(笑)
今までに見た宮島達男の中で、一番この作品が自分にはしっくりきた。

なぜ古い民家と現代美術の相性がこのように良いのだろうか?ということを考えると、余計な装飾のないシンプルな構成と、統一した素材感。
ようするに木と紙で出来た家は、作品をうまく活かすのだ、ということに気付いた。

ベネッセハウスのように、全面ガラスでオープンだと、直射日光にやられてしまったりする。
自然がそのままのカタチで容赦なく作品にふりかかってしまうのだ。
ところが、『角屋』のように”しょうじ”や”ふすま”によって仕切られた空間は、太陽の光を間接的に取り入れながら、作品に味わいを与えるのだった。
家そのものが、空間と光の芸術の作品になるべく作られているとさえ言える。

あらためて日本建築はよく出来ていると実感したのだった。



家プロジェクト周辺の町並みが実に良い。
理にかなった美しい建築だ。
おまけに、それは生活に根ざしている。

思えば、世界の様々な場所を旅してきたけれど、もっとも印象に残っている建築は、常に、生活に密着した旧市街の、無名な建築家によって建てられたふつうの家々だった。

それらは、土地が持つ光や風や湿度や温度や、植物の生育条件やら、ものを運ぶ交通条件やら、職人のうでやら、様々な条件の元で、その場所とその地域の生活にとって最も相応しいものが生き残ってきたものである。

だから、それらは日常でありながら、理にかなっていて、とても美しいのだ。

たとえば、南イタリアのチステルニーノ
やアルベロベッロ、あるいはアンダルシア等の白い町並みがいくら美しいからといって、それをそのまま日本に持ち込んでも意味不明だ。
乾燥した気候と強い日射しを考慮に入れたそれらの町並みを日本で作ったら、湿気でたちまち黴だらけになってしまうだろう。


土地に生息する木やその他の素材以上に、その土地にとって素晴らしい素材など、ほとんど存在しないのではないだろうか?

ところが、現在では、日本中にサンタフェ風だのコロニアル風だのスペイン風だの、なんとか風の家や町並みが、あきれるほど建っている。
意味が分らない。


サンタフェの建築が美しいのは、そこが砂漠で湿気が少なく日射しが強く、砂が光の屈折率を変えるから、あのような色合いと素材感の家が土地にマッチするのだ。
そんなものを日本に持ってきてどうする?
しかも、多くの場合、その本物の素材ですらなく、それ風の色や素材になっていたりするだけだったりするのだった。
いったい何のつもりなんだ??

毎日、自転車で職場に通う時に、最近できた大型マンションの前に、リゾート風のタイルが敷かれた歩道が出来て、毎日そこを通る。
まぶしくって、目が開けられないんだよ。。
歩道に変なタイル敷くなよ。
本当に、困る。



消えかかった伝統的な町並みに、現代美術を持ってくる。
伝統と現代。
一見、相反する気がするけれども、むしろ、たいがいの場合、それはとても相性が良いようだ。

僕が、その事実を初めて実感したのは、南フランスのニームにあるCarred Art'sと、2000年近く前の遺跡の対比を見た時だった。

ローマ時代の遺跡と現代のガラス建築が隣合う姿は、おそろしくカッコ良かった。


ただの懐古趣味や伝統崇拝や保守主義による復古趣味ではなく、伝統的な建築や町並みには、ある種の必然性が存在すると思う。
もちろん、文化や文明は、ある時から制度や習慣になってしまい、本来の『そうなった必然性、蓋然性』といったものを失ってしまうということが往々にして起きる。

そして、技術や文化はしばしば失われてしまう。
残っているのは残りかすのような象徴や様式(スタイル)であるということは、日常茶飯だ。

しかし、現代美術や現代建築をそれらの伝統的建築や町並みに対比することによって、その制度や慣習を打ち破り、ものごとの『本質』を明らかにすることが可能のような気がしている。


現代美術が、そういった制度や慣習に風穴を開ける。
その場所が本来もっている、通常では知覚できないものを気付かせる。
そういった役割が、21世紀の美術やデザインにとって、必要不可欠なものであるような気がしている。

そして、直島の家プロジェクトは、その一歩をとてもうまく踏み出していると思う。

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いよいよ『南寺』

カフェまるやでカレーを食して栄養補給、極楽寺に寄って妖気を補充(笑)し、いよいよ『南寺』へ



この芸術作品は、おそらく人によって全く感じ方が違うと思う。

ただ、僕にとっては、正直言って、”今まで見た芸術の中で最も衝撃を受けた芸術だった”と言っておこう。


まず何と言っても、自他との境の全く区別のつかない、目を閉じているのか開けているのか?すら区別のつかない暗闇に長時間居るという経験が全くなかった。

それは、全く根源的な体験であったのだ。


村上春樹の『ダンスダンスダンス』に出てくるドルフィンホテルの中の”根源的な闇”の場面みたいに、その闇は根源的であった。

普段暮らしていると、『全くの暗闇』という体験をすることがない。
大抵の所は、どこかしら明るいからだ。
目を閉じていたとしても、私達はどこかしら明るさを知覚している。

以前、山の中で全くの暗闇になった経験があったけれど、それとて懐中電灯を持っていたから、見ることが可能だった。
『差異がある』ということが、ものごとを知覚する際の前提条件なのだと思う。


『光があるから闇を知覚でき、闇があるから光を知覚できる』


自分の触感以外をいっさい信用出来ない暗闇において、私達は何を頼りにするだろうか?


それは『音』である。
音によって、私達は空間を把握しようとする。
イルカやクジラが行っているエコーロケーションという手法は、ここから来ていることにあらためて気付かされた。

視界のきかない海の中で空間や餌や仲間を探そうとするとき、イルカ達は音(声)によって空間を把握しようとするのである。
こうもりが超音波を発するのも、同じ理由からであろう。


『音は視覚の代わりになり得る』


しかし、このことに気付きながら、僕はいっさいの音をたてないことに決めた。
音を出さないところが、南寺の観照のための重要なポイントだということに気付いたからだ。


『暗闇』それは、自己の内部と自己の外部との間の葛藤である。
そこには、視覚的ないっさいの境目も存在しないのだ。
『見る』という行為が全く意味をなさない世界、それが『暗闇』なのだ。
自分がしている行為が、全くの無意味な世界。
『私』と『私以外』の区別が全くない世界、それが『暗闇』である。



音の無い暗闇の中で自分の存在、確固たるものの存在を支えているのは唯一触感だけだ。

その触感さえ無くした時、自分の意識はどうなるのだろうか?


私達は暗闇の中から産まれてきたはずだ。
私達は暗闇の記憶を持っているはずなのだ。

『暗闇=記憶』



さて、しかしながら、どういうわけか、『それ』は見えてくるのだ。
ぼんやりと、しかし確実に。。
『私』はたしかに変化している。
見えなかったはずのものが見えてくる。
もはや、視覚は視覚として機能している。
そして、その視覚は『あらゆる感覚を伴った視覚』である。

私は『それ』を体験する。
『それ』は生であり死である。
あちら側でありながら、こちら側である。




南寺を楽しむためのポイント

一、できるだけ晴れた日射しの強い日を選び、外の野外彫刻などを廻った後に見るべし。

二、できるだけ空いている時に入館し、一人きりで見るべし。

三、音はたてないこと。

四、動けるようになったら、『そこ』までいって体験すべし。

五、もっと動けるようになったら、中央から『それ』に近づいていくべし。


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直島へ 地中美術館とアートの領域に達した完璧なデザインについて
http://guild3.exblog.jp/16483114/


直島へ ジェームズ・タレル×安藤忠雄 南寺
http://guild3.exblog.jp/16511304



外部リンク
ベネッセ アートサイト直島
http://www.naoshima-is.co.jp/

地中美術館
http://www.benesse-artsite.jp/chichu/

家プロジェクト
http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/index.html

by guild-01 | 2011-11-06 16:58 | ART

直島へ 地中美術館とアートの領域に達した完璧なデザインについて

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このブログ、ほぼ毎日更新予定なのですが、現在とても忙しいので、過去日記掲載です。(数年前の日記なので、そのつもりでお読みください=細部の情報が現在と変わっている可能性があります。)


直島へ

降りしきる雨の中、仕事を無理矢理終えた僕は新宿へやってきていた。
バスが来るまでのわずかな時間を見つけて、はなまるうどんで、わかめぶっかけうどん(かつおぶし+ささみかつ)を食し、ルミナス1号に乗って、一路岡山へ向けて旅立った。

岡山駅へ着いたのは午前7時45分。
久々に自動改札ではない駅にとまどう。

思えば、ずいぶん昔の修学旅行で関西に来た時に、はじめて自動改札を経験した時は衝撃的だった。
当時はまだ東京でも自動改札は存在しなかったのだ。
関西って、なんて最先端なのだと関心した。
あれから、どれくらい経つのだろう?



直島へは、岡山から高松方面の電車に乗り、茶屋町で宇野線に乗り換えて宇野に行き、そこからフェリーというルートを辿る。


車内は黒髪の女の人がことのほか多い。
し、新鮮だ。。
なぜ、いつの頃からか、日本の女の人の髪はみんな茶色になってしまったのだろうか?(当時は茶色ばかりで新鮮だったのだ 注)


沿線では、ろくでもない郊外の風景と、伝統的な黒い木と白い漆喰の壁の家が同居する。
この黒い板は、タールが塗ってあり、潮風による浸食や腐れを防いでいるのだろう。
そして漆喰は、湿度を適度に保つために必要なのだろう。

屋根の分厚い瓦も、日射しや雨や台風をしのぐのにとても優れている。
だいいち、見た目が美しい。

それに対して、木造モルタル造りでトタン屋根のありきたりな住宅は、美しくない上に、意味が分らないと思う。
呼吸している木をモルタルで固めていったいどうしようというのだ?
防火建築とコストの削減は、わけのわからない町並みを全国いたるところに産み出してしまった。


それでも、この辺りでは美しい住宅ががんばっているのが分る。
そして、その住宅は黒髪が似合う。


港でフェリーを待つ。
こんな辺鄙な田舎に、なぜかフランス人の二人組が船を待っている。
それが直島だ。
彼女達は今や季節外れとも思えるリゾートウェアを身につけている。
しかし、彼女達にとって、この旅はリゾートなのだろう。

とはいえ、このフェリー、島の人にとっては思いっきり普段の足だ。
そのギャップが面白い。

そして船が来る。
あたりまえのようにたくさんの物資や車や人を飲み込み、船は出発する。


店内は、おもいっきりレトロフューチャーだ。
1950年代の未来デザインのようなキッチュな内装。
ピンクのソファーに西陣織のように柄が織り込まれた布地の椅子。
丸みを帯びた窓と電気。
狙ったのか?
いや、まじだったのだろう。

なぜかそこに、工場労働の作業員や、かっぽうぎを着たおばちゃん、リゾートウェアを着込んだフランス人などが渾然一体となって島を目指している。
日本に、こんなにインターナショナルかつディープにロコモーティブな場所があったのだ。


そして瀬戸内海。
かつて、ある中国人が瀬戸内海を見て、「日本にも大きな河があるじゃないか?長江よりはかなり小さいけどね。」
と話したという笑い話があるけれども、たしかに瀬戸内海は大河のように見える。
複雑に流れ、渦を巻きながら流れ続ける大量の水。


直島が見えてくる。
工場建設によって削り取られてしまった痛々しい部分と、自然が同居する直島。


船は港に着く。


今回宿泊するのは、志お屋旅館。
見つけるまでちょっと迷うが、し、渋い旅館だ。
とりあえず荷物を置かせてもらう。



10時10分、地中美術館行きの町営バスに乗り込む。
運賃はたったの100円。
乗客は僕ひとり。。
だ、大丈夫なのか??(笑)



地中美術館
http://www.benesse-artsite.jp/chichu/


安藤忠雄建築の集大成ともいえる地中美術館。
その名の通り、大部分は土の中に埋まっている。

安藤お得意の、打ちっぱなしコンクリートの回廊を歩く。
案の定、床を歩く時の『コツコツ』という音が綺麗に響く。
なんといっても、僕はわざわざこのために『皮底のブーツ』を履いてきたのだ。
正解だった。
が、後に、もっと正解だったことが判明する。



第一室は、クロードモネの『睡蓮』のための部屋。

ここは、春に直島に行ったTの大オススメだったので、期待していた。
たしかに、こりゃスゴい。
完璧に考え尽くされた空間。

この消しゴムみたいな床の材料はなんですか?と学芸員さんに聞いたら、大理石ですとの答え。
なんだ、大理石って磨かなければカッコイイのではないかい。
(なんでも、ミケランジェロの彫刻に使ったのと同じところで切り出された大理石らしい)

丸みを帯びた白い漆喰の壁
磨いてない大理石の小さな立方体を敷き詰めた床。
光はすべて自然光。

光を柔らかく部屋に満たすために、トップライトの下には日よけがついている。
天井も全て白。

太陽が雲で隠れるのが、部屋の明るさによって分る。
それによってモネの睡蓮の見え方も変わる。

視覚だけではない、全身で感じる光と絵画の関係がそこにはある。

自然光の移り変わりを描き続けたモネの作品を飾るために作られた部屋。
絵画と建築、芸術とデザインが一致した空間がそこにある。


ここにあるモネの睡蓮は、彼の最高傑作ではない。
他の絵も、そこそこの作品だと思う。
モネの絵には、もっと素晴らしい作品(たとえば大聖堂を描いた一連の作品など)がいくつもある。

しかし、この部屋の睡蓮は、今までに見たモネの中で最も素晴らしいモネだったと思う。
それは、視覚だけではなく、全身の五感によってモネを体験出来たことによるのだろう。


最近、再びモネの作品をよく見るようになった。
きっかけは、今年になって国立西洋美術館の展覧会によく行くのだが、そのついでに見ていた常設の松方コレクションのモネがとても素晴らしいと思ったからだ。

僕はもともとモネが好きで、彼が描いたノルマンディーの海岸に行ったくらいなのだが、最近まであまり見なくなっていたのだった。

けれど、西洋美術館のモネを見ると、自らの光の体験が蘇ってくることが分った。
それは、絵を見るという行為だけではなく、自分に起きた光の体験を追体験
するという行為でもあったのだ。
だから、モネの作品は、自分にとって素晴らしいのだろう。
他の人にとっては、どうだかは知らない。
自分にとって素晴らしいのだ。


光を感じること、それを全身で感じ取ること、それはとても素晴らく根源的な出来事だ。
だから、それを想起させる絵画が色あせることは永久にないのではないだろうか?そう思う今日この頃である。



第二室は、いよいよジェームスタレル

タレルの作品を見ることはオドロキの連続であり、ネタばらしすることは避けたい。
そこで、いくつかの印象を書くにとどめる。

『オープンスカイ』
丸みを帯びた石のひやりとした感触が心地よい。

素肌にあたる感触と目の前に広がるフレームの中の光や色。
それは、湿原の脇にあった岩に寝転んだ感覚を彷彿とさせた。
そしてそれは秋の訪れを感じさせるものだった。

『オープンフィールド』
振り返った時に見える補色のオレンンジ。
マークロスコが描いたオレンジ。
マークロスコが愛したオレンジ。



第三室はウォルターデマリア

美術館のトップ(最上階)は、礼拝堂のようになっている。
その空間がデマリアと安藤のコラボレーションによる空間だ。

この場所において、僕が履いてきた『皮底のブーツ』は、最大限の効果を発揮することになる。

音の響きが素晴らしい。
歩き方を変えてみる。
つま先の方を先につける歩き方。
かかとを先につける歩き方。
歩く姿勢。

自分が歩いた足音によって表情が変わる空間。
僕は全身の神経を歩く音を響かせることに集中する。

音響、反響
完璧に計算尽くされた建物の素材と形状がそこにはある。


ゴム底のスニーカーを履いていっては絶対に気付かない、サウンドスケープがそこには存在する。

『空間や建築』それは、それ自体単独で存在しているわけではない。
『私』という媒介が空間を変えるのだ。

みなさまも地中美術館へ行く際は、是非『皮底の靴』で行きましょう。(笑)


服はJACK HENRYのジャケットを着てくるべきだったと反省する。
collection PRIVE?のパンツと裏返したコスチュームのジャケットという僕のいでたちは、ちょっとこの空間にはカジュアルすぎた。

といっても、夜行バスで岡山まで行くには、バシッとした服を着ていくのは難しい。
うーん、難しい。


安藤建築と地中美術館の背後にあるもの

安藤の建築は、おそらく個々の経験と普遍的な論理、両方によって裏打ちされている。


地中に埋められ、屋根を土や芝生で覆った建築。
そのような建築のオリジナルを、僕はスペインのGuadixで見たことがある。
地中を掘り抜いて、壁をしっくいで塗った住宅。
スペインの強烈な日射しを避け、中は涼しい。
適度な湿気を保ち、冬でも暖かい土と岩で出来た住宅。
それは、土地の環境に完璧にフィットした完璧なデザインだった。


部屋に到るまでの長い回廊は、エジプトのピラミッドだろうか?
それともローマのフォロロマーノの印象だろうか?
異界へとくぐり抜ける装置としての長い回廊。
それは、多くの寺や神社の階段や回廊とも通じる普遍的なものだ。


この回廊を安藤は打ちっぱなしのコンクリートという、モダンデザインが産み出した比較的均質な素材で創り上げる。
とはいえ、コンクリートそのものは、もともと川底の砂利や砂を用いたものであり、自然の加工品である。

そこには、やはり自然が産み出したテクスチャーが存在している。
そんなコンクリートで出来た回廊の中庭に、安藤は”とくさ”を植える。
あるいは、石灰岩を置く。


この技法は、南禅寺金地院の庭や龍安寺の石庭に見られる技法の応用だろう。
かつての庭園デザイナーが用いた自然(宇宙)の移し替えの技法。
京都郊外の川から持ってきた砂利や砂や岩がもたらす新たな宇宙、それをコンクリートや”とくさ”や石灰岩に置き換えたのだ。


70%の加工された自然と30%の自然
70%のグローバル性と30%の地域性と言い換えてもいい

それが安藤が行っている『現代建築』の姿なのではないだろうか?


この建物は細部まで実に気を配られている。
亜鉛の質感とコンクリートの質感と木の質感のバランス。

この絶妙のバランスを作り出すためになされた配慮は、相当なものだと思う。
お金だって手間ひまだって、ものすごくかかっているだろう。
それは見事だ。
故に、『触ってはいけない作品』になっているのだろう。


おそらく、この美術館は、ある種の『究極のデザイン』を実現したものだといって良いと思う。
『究極のデザイン』は、実用というよりもむしろ、『作品』として『芸術』にならざるを得なかった。
それが、この美術館の姿だったのではないかと思う。


僕は、この『作品』を尊敬している。
しかしながら、この『作品』が新しく自分に何かをもたらしたか?と問われればNOと答えざるを得ないだろう。

この作品が内包しているもののほとんどを僕はオリジナルとして知っており、経験している。
そういった面で、この作品は美術史や建築史や庭園史を現代風に解釈し直したものであるといって良いと思う。

僕にはそれが『分ってしまう』のだ


同様のことは杉本博司の写真にも言えると思うのだが、僕は彼の写真がとても好きだ。
しかしながら、杉本の写真を僕はすでに知っている。
ゲルハルトリヒターとマークロスコとジョエルマイヤーヴィッツが大好きな僕にとっては、杉本の作品は既に自明なものなのである。


それはクオリティーが素晴らしいが故に『作品』として尊敬されるべきものであり『芸術』に至っていると思える。
しかし、そこにオリジナリティーや、この世界に新しい何かを付け加えるはずの芸術性というものを見ようとする時、そこに何があるのか?がよく分らないのだった。


つまり、安藤の地中美術館も杉本のハイクオリティーな写真も、共に、とても優れた究極のデザインといってよいものなんだと思う。
それは、ハイクオリティーで芸術の域に達している。
しかし、それは完璧であるが故に自明なのだ。

それは完璧に仕立てられたデザイナーズのスーツとも共通するものである。


ここに、芸術というものの持つ二律背反性が生じることになってしまう。


『本当に優れた芸術は、完璧であってはならない。』


なぜなら、完全さは、この世界に新しい何かを付け加えることは無いからである。


本当に新しい何かをもたらすものは、もっと違うものである。
おそらく本当に新しい何かをもたらすのは5%の例外である。

そして、その新しい何かを、僕は『南寺』で体験することになる。

つづく


つづきはこちら。
直島へ ジェームズ・タレル×安藤忠雄 南寺
http://guild3.exblog.jp/16511304



外部リンク
ベネッセ アートサイト直島
http://www.naoshima-is.co.jp/

地中美術館
http://www.benesse-artsite.jp/chichu/

家プロジェクト
http://www.benesse-artsite.jp/arthouse/index.html

by guild-01 | 2011-11-05 14:07 | ART

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by guild-01 | 2011-11-02 20:08 | Miho Tanaka